tokyo-pull up-barの日記

フランスでの生活で気づいたことを書いていくブログです。

情報に翻弄される旅

先日の続き。旅について思ったこと。

 

旅先に関する情報がネット上にあふれているので、事前に計画を立てることは簡単になっているようで、ややこしくなっているように感じる。

 

旅行前、旅行中、あふれる旅先の情報にネット上で触れて、正直なところネット疲れした。

 

レストランも似たような評価レートが付き、この0.ナンボの評価差がどれほど自分と家族の楽しみに影響するかわからないまま、美味しいといわれる店の空きを探していく毎日。我ながら見事に情報に翻弄された一連の旅路だったように思う。

 

絶対見るべきポイントみたいなものも多すぎて、とくに日本人はしらみつぶしに見ていくのだろうが(我が家もその傾向)、似た感じの「見るべきポイント」に次々出会い食傷気味になっていく。茶色い屋根がきれいな街、などきれいなのかもしれないが、結構どこでも見かけるしなと。

 

次回は、あらゆる評価サイト禁止旅行を計画したい。

 

ちょっと前まで、旅程ってどのように決めていたか。忘れつつあるので、子供のころを思い出してみた。

 

GWや夏休みが近くなると、町内では、近所のおばさんの娘さんの注目度が急に上がる。その娘さんはJTBで働いていた。

伊豆の修善寺に行きたいんだ、と近所のおばさんに道端であった時に行っておくと、それが娘さんに伝わり、数日後に、何パターンかのチラシがポストに入っていたり、おばさんから渡されたりする。

 

インターネットがないから、チラシの情報が全てだっただろう。部屋の写真だって、他に見ることが出来ないから、自分が泊まるか分からない部屋の、おそらく3センチ四方程度の写真をみて、「この宿、素敵ね」とか言っていたのだと思われる。さらに知りたければ、JTBの娘さんに聞くか、直接宿に電話で聞くしかない。追加でビジュアル情報が入ることは難しいだろうが、宿の人と直接話をすることで、雰囲気は感じることが出来たのかもしれない。(←この部分が今ない。今回、宿から連絡はあったが到着時間を事前に教えてくれというだけのもの。今は、音声、肉声による事前の説明がないな。)

 

行くべき名所だってチラシに書いてあるところから選んで行ったのだろう(←掲載されている名所そのものは、ネットでもチラシでも大差ないだろう)。チラシには、ブログのように、実際に行った人の感想が入っているわけでもなく、概要が説明されていたくらいのものだろう。名所に関するストーリーは今や誰かのブログに書いてあるが、昔は実際に行って、石碑とかの説明文などを読んで「へー」とか言っていたのだろう。

 

昔と今で何が違うのだろう。昔は事前情報が少ない分、情報の取捨選択をしまくるというプロセスがない分、疲れが少なかったのかもしれない。

 

次の旅行は、もっとゆっくりしよっと。

バカンスで全てを忘れてくる(?)

同僚が1ヶ月のバカンスから帰ってきた。自分と入れ替わりだったので1ヶ月半ぶりの再会だ。

自分はフランス語が話せないことを認識して貰ってるので、普段は皆と英語でコミュニケーションしている。

そんなことはすっかり忘れてしまったようだ。フランス語でめっちゃ話してくる。

その位の感覚が本当に素敵だと思う。
休むときにはしっかり休む。

観光地が嫌い。

こちらで暮らすようになって、ちょっとした連休にも旅行に行くことが多くなったので、気がつくようになったのだが、自分は旅行が嫌いらしい。旅行が嫌いというか、いわゆる観光地に行って、有名なものを見て、食して、という類のものがどうも嫌いで、旅行中、気持ちが高ぶらないことが多い。

 

たぶん、観光地は、休みを過ごすには、色々と「過ぎる」要素が多い気がしている。

 

情報が多すぎる

人が多すぎる。

値段が高すぎる。

予定を詰め込みすぎる。

 

この「過ぎる」要素は、普段生活をしている都会で感じているもので、休みには正反対の生活にしたいのだが、家族の意向もあって、結局場所を変えて「過ぎる」生活を送ることになりがちだ。

 

今回の夏休みでも、結局、いくつか観光地を回って帰ってきた。

 

帰りの飛行機の窓から見える村々を見ながら思った。こんなに素敵な小さな村や町が沢山あるのに、どうして、わざわざ観光地に行くのだろう。トリップアドバイザーなど、ネット上の情報が充実しているように見えて、実はこれらの情報は、一般旅人の自由を薄めるような、そんな媒体になっていやしないかと。

 

今回の旅でも、たまたま出会ったフランス人家族と、仲良くなったりして、何だかんだで旅を楽しんではいる。自分の理想の旅は、そんな出会いがもっと強調された、毎日がウルルン滞在記、な旅である。(自分でも久しぶりに、このウルルン滞在記って言葉を使ったな)

 

 

つらい経験を共有するという日本人のクセ

甲子園や高校野球のあり方に関するニュースなどがよく出ている。軍隊主義的だなどと言われている。日本人の中には、戦争の影響かわからないけど、みんなでつらい体験を共有する、ということが何か価値のあるものだと思われているような気がする。幾度も災害から立ち上がってきたというのも、こうした文化の背景にはあるのだと思う。

スポーツについてはあり方が変わらないといけないな。自分が中学で野球部に所属していた時にも「水は飲むな」の文化があって、馬鹿らしくて、水を飲んでるサッカー部に転部した。水だけが理由でないけど。大人になって、「あの頃は水も飲まずに頑張ってたなあ」って会話に何の意味があるのでしょう。

自分も年齢が当時の顧問に近くなって思うけど、野球部は水を飲まずに校庭をウサギ跳びしていて、サッカー部はスポーツドリンクを飲んでいて、この状況で、指導者として何か気づかななかったのか。指導者として成長したいと思うなら、誰かから学ぶのだろうけど、教えてくれた人も水飲むな系の人なんだろうな。当時はインターネットもなかったし、正しい情報が入ることがとても難しい状況だったのかもしれない。

仕事の仕方もそうだな。つらい体験の共有ばかりでなくて、楽しいことを共有しながら仕事を進めていきたいと思うのでありました。

物価目標というもの自体がしんどくなっている印象を受ける

消費者物価指数で除かれている生鮮食品の価格のボラティリティの方が、いまと未来の「環境」を表している。環境と貿易問題に揺さぶられる経済が続きそう。

少ない消費で生きて楽しむことができる経済の構図になりつつあると思う。日本人ならではの創意工夫で企業が時代に対応しようとした結果作った構図だ。フランスのモノのクオリティの低さと値段の高さから考えるとからすると、日本の企業努力というか我慢は凄いと思う。

日本企業の努力が及びにくい(生産者に負担のしわ寄せがいくしかない)生鮮品について、もっと考えねばなと、最近の日本の災害の多さと、日本の美味しい海産物を思い出しながら、思う。

賞味期限のパターンが少ない。

朝食にヨーグルトを食べている。こちらは、フレーバーが日本より豊富で、パイナップル味、ココナッツミルク味、パパイヤ味などは美味しい。

 

スーパーに陳列されているヨーグルト。その賞味期限のパターンが少ない。日本だったら、日単位で賞味期限がずれているので、奥のほうに置かれている、賞味期限が先のものを買ったりするだろう。

 

こちらでは、全然、賞味期限がアップデイトされない。10日単位でしか変わらないのではないか。2週間位前に、8月7日が賞味期限のヨーグルトが並んでいたけど、今もまだ8月7日が賞味期限のヨーグルトが並んでいる。

ヨーグルトは毎日製造されているわけではないのか?

 

たまに、急に賞味期限期近のものに並び変わっていたりする。日本だったらそんなことはないだろう。

先に製造したヨーグルトが物流の関係で後から届いたとでもいうのか。

 

こんな状態、ちょっと面白いだけで、消費者としては何も困らない。製造者側もこれで楽が出来ているなら、このシステムで十分だ。これも働き方が反映された事例なのかもしれない。

働き方改革の記事が企業の宣伝になっている。

日経新聞の働き方の記事を見ていると、どれも有名な企業で、何か、働き方改革を通じて「うちってこんなに時代に合う働き方を提案してますよ」という宣伝をしているようにしか見えない。そして、それはまだ世界と比べると、時代にあったものにはなっていない。

 

たぶんどの記事も、フランス人には響かないだろうな。むしろ、なぜこんなことを記事にしているか理解できないだろう。「早く帰りましょう」と社内でアナウンスが流れたり、パソコン画面にメッセージが表示されたり、その辺の仕組みには笑うかも。勤務インターバル間制度も、なんだそれというところだろう。ハーフタイムを決められるのはスポーツだけで十分だと。

 

フランスは夏休みに突入した。会社のチームのメンバーは半分しか出社してない。社内でメール送ると、次の出社が3週間先だと自動返信が来る。大きなスーツケースとともに出社する人もいて、このままバカンス突入と分かる。1ヶ月弱見てない同僚がいるが、辞めたわけではないらしい。

 

日本人がもっと人間らしく楽しく働ける日本にしたい。